『地獄に堕ちるときの感覚―死後の世界について⑫』
『地獄に堕ちるときの感覚―死後の世界について⑫』 大川隆法総裁
真っ逆さまに地獄に堕ちる人
あの世の世界には論理性がなく、その人の理解度によって違う世界が見えるのです。そして、この世で得た悟りが、死後に行く世界のそのままつながっているのです。
臨死体験の報告は、ほとんどが、安らいだ世界に行く話ばかりなのですが、そうではない場合もあるということを知らなければいけません。安らいだ体験でない場合には、あまり発表したがらないのかもしれませんが、地獄の体験をしている人も、現代ではけっこう多いはずです。
最もひどい人になると、「真っ逆さま」という形容そのもののかたちで落ちていきます。そういう場合の落ちて行く感覚というのは、あくまでも主観的なものですが、ほんとうに地級の中心部ぐらいまで落ちたような感じがします。
何百キロ、何千キロと落ちていき、どれだけの距離を落ちたか分からないぐらい、深くまで落ちて行く感じです。エレベーターのロープが切れたような感じ、あるいは、底なしの井戸に飛び込んだような感じで、落ちていくあいだの時間も距離も分からないぐらいです。
そして、どこかで止まるのですが、周りが真っ暗で何も分からず、手探り状態ということもあります。ちょうど夜明け前の暗さのようなもので、寒さと孤独感のなかでしばらくじっとしていると、うっすらと周りが見えてきます。
それからとの光景は、当会の映画に出てくる地獄の描写によく似ています。
そういう暗い世界である場合もあれば、ボコッボコッとマグマがが吹き出したり、火が吹き出したりするような場所の近くにいる場合もあります。
あるいは、落ちるや否や、何ものかが襲ってくる場合もあります。
みなさんも、高熱を出したときなどに、そういう怖い悪夢を見たことがあるでしょう。刀を持った人に追いかけられたり、棍棒を持った人に追いかけられたり、マシンガンを持った人に追いかけられたりした経験があるだろうと思います。
そのように、下に落ちてしばらくすると、自分を害そうとするものが追いかけてくるという恐怖体験をする人もいます。リアルで、実感があります。
いつも「人から害される」と思って人生を生きてきたような人は、地獄へ行ってそういう体験をすることが多いのです。
この世界は広大無辺であり、いろいろな話しが無限にあります。
地獄へ歩いて降りていく人
いまは、病院で死ぬことが多いので、たいての人は、病院のベッドの上で幽体離脱をして、トンネルを抜け、三途の川を渡り、あの世へ行きます。
その後、教会やお寺に行って、いろいろ反省をさせられ、行き先が決まります。その結果、四次元精霊界で修行する人もいれば、「自分の人生は不合格でした。すみませんでした」と反省文を書き、どのくらいの修行は必要かを守護霊たちと相談して決める人もいます。
「こういう人生だと、そのカルマの刈り取りをするためには、この程度の修業は要るだろう。そういうことなので、あなたの行き先はこちらです」と言われ、そちらの方へ歩いて行くと、美しい花が咲いている、なだらかな丘から、サーッと下り坂が始まっていきます。
その下り坂を、とぼとぼと歩いて下りていかなければいけません。コースは幾つかありますが、そこを下りていくのです。
きれいなお花畑だったのが、だんだん周りの景色が変わってきます。ちょうど浅間山の溶岩の荒原か、阿蘇山かどこかのような、ごつごつした岩肌の地面になってきて、木も潅木になり、それもまばらになってきます。
さらに歩いていくと、だんだん薄曇りになり、周りが暗くなってきたり、気温が下がってきたりします。そのように、下がっていきながら少し旅をするのですが、あおのあいだに、いろいろな経験をします。
地獄の境目にも、いろいろなものがあります。さまざまな人と出会うこともありますし、そのあたりで迷っている人もたくさんいます。自分を惑わす人もいれば、道案内をしてくれる人います。
また、下から上がってくる人もいます。「私はやっと帰れることになったのです。あなたはこれからですか。ご苦労様です。がんばってきてください。地獄も住めば都で、済んでしまえば、すべてがよいことでした。私は六十年の修行が何とか終わっていま帰るところなのです」などと言う人もいれば、「ああ、向こうから、懐かしい私の守護霊が迎えに来た」などと言う人もいます。
そういう人とすれ違うことがあり、「修行が終わった人はいいな」と思いながら下っていくのです。
ただ、このように歩いていける人は、まだそれほど罪は重くないのです。自分で自覚して下りていく人は、ストーンと落ちる人ほど悪くはありません。
死んでから困らない生き方―スピリチュアル・ライフのすすめ
↓【ブログランキング参加中、応援よろしくお願いします】
スポンサーサイト