一生を映し出す霊界のスクリーン―死後の世界について⑨ 大川隆法総裁
フラッシュバックによる人生の回顧生前に宗教に縁のなかった人は、死んであの世に還ったときに、導きを受けられずに苦労することが多いのです。
そして、死んだときに、フラッシュバックといって、自分の人生の回顧が始まるのですが、これは人によっていろいろなかたちがあります。「照魔の鏡」に映すようなかたちで見る場合もあれば、映画のスクリーンのようなかたちで見る場合もあり、回想のような感じでパッパッパッといろいろな場面が見えてくることもあります。
臨死体験の報告を見ると、不思議なことに、どの人も、「あの世へ行くと時間というものがない」ということを共通して言っています。時間というのは、地球の自転を縁として生じているものなので、あの世には時間の観念がないのです。「あの世に行くと、時間も空間もなくなったような感じになる」と言っていますが、そのとおりなのです。
フラッシュバックで自分の過去を思い出すときにも、数十年の人生を一瞬で思い出すので、「こんなことがありうるのだろうか」と思います。普通に考えれば、数十年の人生を思い出すのに、ダイジェスト版にしても数年分ぐらいはありそうな気がします。それを一瞬のうちに、子供時代からのさまざまな出来事をザーッと全部思い出すのです。
自分がけんかをしたときのことや、何かがうまくいったときのこと、あるいは親兄弟や子供、友達との関係、学校や就職のことなど、よいことも悪いことも全部思い出すということが言われています。
第三者の目で自分の姿が見えるそのときに、人生を自分の視点から見るだけではなく、面白いことに、第三者の立場から見た光景が見えるのです。
たとえば、あなたが子供時代にけんかをしたとします。相手とあなたがけんかしているシーンが、第三者の目で見るように見えるのです。
したがって、これは脳のなかにある記憶ではないということです。では、その情報はどこから来ているかというと、実は守護霊からなのです。
人生の“ビデオテープ”のなかには、自分で見た印象として記録されているものもあれば、守護霊の目で録ったビデオの映像も編集されて入っているのです。そのため、第三者の目で自分の姿が見えるわけです。
それから、フラッシュバックで過去の自分の姿を見ているときに、まるでタイム・マシンにでも乗ったように、その何十年か前の世界にスーッと入って行くことができます。その場にいるのですが、そこにいる登場人物には自分の姿が見えないのです。
そして、過去の自分、子供時代の自分が『ドラえもん』のジャイアンのように相手をいじめているシーンなどが見えてきます。
そのときに、いじめたほうの記憶が自分にあるのは当然ですが、それだけでなく、いじめられている相手のほうの気持ちもサーッと入ってくるのです。いじめられる側はどうであったかということが伝わってくるわけです。
殴られて痛い感じや、悲しい感じ、裏切られた感じ、それから、家へ帰ってからお父さんやお母さんにどう言い訳をしようかと考えている感じ、次の日に学校に行けるかどうかで悩んでいる感じなど、そういう悶々としたり苦しんでいる相手の気持ちが、ザーッと入ってくるのです。
過去の記憶としては、自分がいじめたことは覚えているかもしれませんが、いじめられた側のほうの記憶も全部入ってきて、その場面が客観的かつ公平に分かるようになっているのです。
そのように、人生のいろいろなトピックスのところが、点々と見えてきます。
相手の「その後」を追体験するまた、「人生の途中で、自分は仕事で勝利した。他社を競争で退けて、取引に勝った」という記憶を自分が持っているとします。フラッシュバックでも確かにそういう場面が出てくるのですが、そのときに、敗れたほうの相手が、その後にどうなったかということも、ずーっと見えてきます。
敗れた相手が、肩を落として帰っていく姿や、その後、しばらくしてリストラに遭ったり、左遷されたりする姿、さらには、一年後会社を辞めておでん屋を始めた姿など、そういうところまで見えてきます。
取引のあとのことは、その人とは会っていないので知らないわけですが、「あの人はそんなことになっていたのか」ということが分かります。
「自分は『勝った』と思っていたけれども、その後、この人はこんなことになってしまたのか」ということです。「それが原因で奥さんとけんかをして、こんなけっかになってしまったのか」とか、「それが原因で子供が非行に走ってしまったのか」とか、自分に関係のあったことや、自分がしたことによって、周りの人たちがどうなっていったかということを見せられるわけです。
それを、ビデオを見るような感じで見る人もいれば、青の場面のなかに入っていって、ありありと見る人もいます。しかし、いくら声をかけても相手には聞こえません。「僕はそういうつもりではなかったのだ」とか言うのですが、相手には分からないのです。
臨死体験として報告されているものによれば、武器商人をしていた人が、自分としては武器を売るところまでの記憶しかないのに、その後、その武器がどのように使われ、どのように人が死んでいき、その家族がどのように悲しみ苦しんだかということを見せられ、家族が死体に泣きつく姿や、お葬式をしているところまで、追体験させられたという話もあります。
その人の商売は、武器を売るところまでで終わりなのですが、その後、その武器がどこに命中して、だれが死んだかということまで、霊界の記録には残っているのです。こういうことは、生きているときには分からないのです。
おそらく、広島や長崎に原爆を落とした人たちも、死んだあとは大変だったでしょう。その人たちは、命令によってボタンを押して原爆を落としたのでしょうが、「私は上司の命令どおりにやっただけだ」と言っても、原爆で死んだ人たちの苦しみや悲しみを追体験したら、それは大変な辛さだろうと思います。
霊界では、そのようなことがあります。
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